セイント・フランシス(Saint Frances)考察

今日は最初に観た映画が不発だった。途中で観るのをやめてこれを鑑賞した。これも不発だった…🥲

一言でいうと、意識高い系フェミニストってキッツいわ!

①ブリジットが依頼人(マヤ)の家にいつもみたいにナニーしに行ったら、大学の時の同級生がいてナニーをしてることを馬鹿にする態度をとられ、自分の家で自分の息子用に人参を切ってきてと言われるシーン。ブリジットはバカにされたままパシられる。マヤも何も言わない。ブリジットは同級生の家の床に落ちた(フランシスが落とした)にんじんをそのままお皿に戻し、マヤの家に戻り、同級生の息子に与える。モリモリ食べてる同級生の息子を見てフランシスとニヤニヤ。フランシスは同級生の息子の家で息子のおもちゃを1個壊してきた。

「あなたは雇用主じゃないわ。自分の子供のおやつは自分で用意してきて。」と言えばいいだけの話。それでもし「お金を払うからやってよ!」と言われたらお金を受け取ってやってあげたらいいんじゃない?それはおかしいって理不尽な要求を突っぱねること(正当な権利、自分を大切にするやり方)はしないで、関係のない相手の息子に汚れたにんじんを食べさせてニヤニヤするのはただ陰湿なだけ。息子に汚れたにんじんを食べさせても同級生にバカにされてる事実は変わらない。ついでにいうと、フランシスがおもちゃを壊して腹いせしようとした時に止めないのは、道徳的に問題があると思う。やられたらやり返すが正解なの?それは違う。自分を守るための正しい振る舞いややり返すことが正解ではないというメッセージを伝えるのが映画の役割だと思うんだけど🤔

主人公を卑屈に書きすぎだし、これではマウントしてバカにした相手と同じ土俵に立ったことになる。そもそもなんでナニーをしている34歳独身女性が哀れで足りない存在なんだろう?ナニーって子供の命を預かる大変な仕事だよね?これを看護師に置き換えたらどう?看護師は国家資格だけど頭が悪くても丈夫なら続けられる仕事だから、けっこうワケありが多いでしょ?「専門卒34歳独身崖っぷち女性ナース。頭が悪いからナースになって必死に今の職場にしがみついてる、彼氏はいない、セフレとの子供を堕ろした、ギター教師とやっちゃったwコンドームするのを嫌がられた、生活が厳しくて訪問看護の仕事も掛け持ちしてる。訪問先に行ったらたまたま同級生がいて、一緒に連れてきてたおばあちゃんのストマが壊れた。同級生は訪問先の人に「訪問看護って高くない?看護学校卒だったら安いの?」って聞いてから主人公に自宅におばあちゃんを連れて行ってストマの交換をしてって言ってきた。もちろん無給。主人公はおばあちゃんが見ていないのをいいことに床に落としたストマの部品を消毒もせずに使用した。数日後おばあちゃんの具合が悪くなったと聞いてニヤニヤした。」大問題だよねw看護協会を敵にまわせないし(多分映画を公開できない)、制作者は意識的か無意識的か分からないけどナニーの仕事を誰でもできる子守だと強烈に見下して職業差別している。業界団体の力が弱かったり言い返してこなさそうな職種だったりのナニーや無関係な子供には偏見をぶつけるというなんとも言えない小者感( ^ν^)

②中盤でブリジットの母がブリジットに「生まれないか、今の自分として生まれるか、選べるならどちらが良かった?」と聞くシーン。論理的に前提(選択肢の対置)がおかしい。ブリジットに特定の答えを言わせるための、意図的で誘導的な質問をしている。これって論理的におかしい。生まれないかの反対だったらシンプルに生まれるのはず。

​本来成立するべき対照関係​は「存在するか/しないか」の軸(二者択一)である。A. 生まれる​B. 生まれない

​「どのような条件で存在するか」の軸(アイデンティティの選択)だとしたら​A. 今の自分(この境遇・この人格)として生まれる​B. 今の自分とは別の形(別の条件・別の人間)として生まれる。

もし選択肢が「生まれない」対「(どんな条件でもいいから)生を受ける」であれば、生命そのものの肯定や希望の話になる。

​この母親がしたのは、今の惨めなあなただとしても、生まれてきてよかったと思えているよね?という確認・自己満足(親としての免罪符が欲しい)。​本来なら「生まれてきてよかったけれど、今のこの状況や自分自身には納得していない(別の自分でありたかった)」という健全な思考の余地があるはずなのに、その中間を強引に排除している。​自分の都合の良い結論や感動に引き込むために、対比のロジックを意図的に歪めて質問を作るという手法で、親と子の支配的な関係性やずるさが非常によく表れている。

③花火大会での公共の場でのマヤの乳出し授乳を巡っての近くにいた家族連れ女性とのイザコザ。対立していた者同士が子供の仲裁で和解し、マヤが勇気を出して自分の意見を言えた感動的な場面風に演出されているけど、根本的な問題や議論方法をなんとなくいい雰囲気で煙に巻いただけで、何ひとつ解決していない。

マヤ側の問題: トイレが近くにないからといって、混雑する公共の花火大会の場でそのまま胸を出して授乳するのは、配慮に欠ける行為(周りが不快に思うのも無理はない)。​

相手女性の問題: 苦情を言うのは権利だとしても、「男の注目を浴びたい」「子供に同情する」といった個人的な嫌がらせや偏見に満ちた暴言を吐いたのは完全にアウト。

​本来なら「公共のマナーとしての授乳のあり方」と「相手の人格を攻撃していいか」は別問題として整理されるべきなのに、映画は子供(フランシス)の可愛らしい仲裁と「我が子への愛情は詫びない」というエモーショナルな名言っぽいセリフで、全部まとめて「お互い理解し合えたね」風に綺麗に美化してしまっている。我が子への愛情を詫びる気はないって、そんな事話してない。なんで負けそうになると感情論(母の愛は正義)を持ち出すんだろう?お互いに非礼を詫びて思いやるのが真の他者理解ではないだろうか?それなのに映画では正当なルールや論理で会話を落とし込むのではなく、「感動的なセリフ」や「子どもの無邪気さ」「花火が上がるタイミング」といった雰囲気演出で「私たち(マヤとブリジット)が正しかった」という空気を作り出して話を終わらせてしまっている。

つまりこのシーンではマヤも相手の女性も相手を理解した風なだけ。だから例えばその後それぞれが別の場所で同じ条件になった場合、マヤは公共の場で乳を出して当然の権利だと叫ぶだろうし、相手の女性は気に入らないことがあったら暴言を吐いて相手を傷つけようとすると思う。本来の健全なフェミニズムや人権主張は、多様な人々が社会の中でどう互いの境界線や権利を尊重し合って生きていくかという対話やルールの再構築を目指すもの。この作品はそれとは程遠い。

あー、疲れた。

ツッコミどころ満載(;^ω^)ブログ作成のために最後まで観ようとした…けどラスト30分くらい残して辛いので離脱!もったいないけど、本当に嫌なものに人生の貴重な30分を使いたくなかった。論理的に解体するために観ているわけではないのに自分の感性を守るために分析する必要が出てくる、そんな映画だった。脚本家はカトリックの思想が(悪い意味で)心に染み付いているミサンドリーなのに、リベラルでフラットなフェミニストのフリをしている。20代の時のナニーの経験と30代の時の中絶経験を組み合わせて描くのはちょっと力技すぎる。全く架空の話なら組み合わせても構わないかもしれないけど、自分が主演する映画で自分の都合のいいように自分の過去をかいつまんでフィクションとして出力し、新時代のフェミニズムの色をつけて世に送り出す。実際の経験がもとになってると言われたら観ている人は実際の経験そのままだと錯覚してしまう。

脚本家にとっては表面的な大絶賛をされ気持ちよく承認欲求が満たされればいいのかもしれないけど。論理的におかしな部分を無理やり雰囲気でフワっとまとめてるし、自分が褒められればいいので細かいところまで考えて書いてはいない気がする。ものすごく感情的で「生理!タンポン!堕胎!セックス!LGBT!」ってずっと叫んでる感じwうるさいって注意したら「差別するな!」って襲いかかってきそう。女の嫌な部分を煮詰めたような感じ。あまり深く思考することができない人が脚本を書き、イエスマンが集まって作った映画なんだろうな。底の浅い人間が担ぎ上げられ、本人は啓蒙しているつもりなんだろうけど。中身がないからただのヒステリーと無自覚なマウントなんだよねw男性にはどれだけ失礼な事を言ってもいいと思ってるのも痛々しいし。

ナニーの描写も気になるなー。ナニーという仕事を「本当の自分になるための通過点(引き立て役)」として扱っている。惨めな通過点。さっきも書いたけどプロのナニーに失礼だ。過剰に配慮しろと言うわけではなくて、その設定を他の職業に当てはめてみて、それでも通用しますか?と問いたい。例えば看護師に当てはめてみて失礼だと感じるならそれはナニーという設定でもやるべきではないと思う。彼女にはこういう「フェアな精神」が足りない。なのに風通しのいい革命家ぶっているのが見ていて気分が悪い。

脚本家がナニーを「これくらい自虐的に扱っても大丈夫だろう」「誰も声を上げて抗議してこないだろう」と高をくくっている(無意識に足元を見ている)姿勢が透けて見える。​特定の職業を「主人公の葛藤や成長を演出するための都合のいい引き立て役(不幸の象徴)」として消費し、そこに「フェミニズム」という免罪符を被せるやり方は、自身がその職業を経験していたとしても許容される性質の問題ではない。

脚本家はもしかしたらナニーをしていた昔の自分を心のどこかで否定していたり、昇華できていないのではないかな?彼女の創作力の限界を感じる。せっかくの機会なのに、自分の狭い個人的な被害者意識を織り交ぜた私のイケてなかった時期の苦労話になっちゃってるのがもったいないよね。

でも、もしかしたらラスト30分でものすごく鮮やかな伏線回収がなされて、感動のフィナーレになるのかもしれない。それは分からない。分からないけど分からなくていいやという感じの映画だった。